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テセウスのパラドクス

テセウスの船はパラドクスの一つで、ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさします。
息子は割とこういう問が好きで、ユーチューブなんかで見てはたまに議論になったりするのだけど。
みなさんはどう思いますか❓


ワタシは明治村をふと思い出しました。
明治の建物等を巨大な立地に配置し、維持保存しながら博物館として見せるもの。
実際、維持や補修は長い期間に掛けて行われ、おそらくテセウスの船同様の建物もある。
ではそれはもはや、同一でないのか。
当初私は確かに「ここまで修繕(建替含む)してるなら既に、ホンモノと言えないのでは」と思った記憶があります。


今は、それを維持したい、後世へ美しさを伝えたい、残したいという人々の思いや魂がそれを「同一」とさせていると考えます。
甘っちょろいかもしれませんけど。。。
実際歴史あるものを目の当たりにすることで、ペーパーで学ぶ以上の衝撃があるのです。
知識に血肉がつくと言いますか。
明治村だと、例えば帝国ホテルの正面玄関を見て、今ではとてもこの意匠を再現した建物は建てられないだろうなと、ため息が出ます。
緻密さ、美しさ、全てを再現したら多分破産しちゃいますね。
それを可能にした当時のすごさや、歴史的な背景等、そこに建つものは無言で様々な事を語るのです。


テセウスの船」は、そのもの自体への愛着が、同一性の判断に影響するのかなぁ。
物理では別物でしょうけど、その美しさ、すばらしさを時代をこえてリレーしていく人々の思いがそれを「テセウスの船」としている。
そんなふうに思うのです。